私の 共生者  パートナー





私の家には、よくボランティアのはぐれ者達が集まり、夜通し歌・酒・おしゃべりに明け暮れる。


「ボランティアって言うのは結局いつまでたっても世界が広がらない。
 もっと大きな夢を追いたいなあ。
 その仲間の中に障害者が普通にいればいいんじゃないか」

「外側から見て狭くても、その人本人にとっては僕らにはわからない広い世界があるんだよ。
 それよりも犠牲的精神とかいうのがボランティアをもっと狭くしてる要因じゃないかなあ」

「あら、私なんて活動の中で自分をいじめぬいていくことに快感を覚えるわ。スポーツだってそいうところない?」


いろんな人がいる。
いろんな思いで活動を続けている。
その人が育った環境もあるし、活動を始めるようになったきっかけ、続けるようになったこだわりで随分ちがうのだなあと
いつも感心させられる。


私は時々脳性マヒの障害を持つ友人が買い物に行く時介助して同行する。
買物不精の私にとっては、彼が持つ情報(どこで何を売っているのか)が大変役に立ち、
いつのまにか彼と同じくらいの買物を車いすにぶらさげて(結構これが楽)帰宅する。
彼にとって私は「奉仕者」でなく生活をやりとりしていくなか、互いにメリットを見つけだせるような「 共生者  パートナー 」。
私はどうやら最近これにこだわっているのではないかと気がついた。


残念なことに、今の生活はこの関係をつくり上げるまでの時間のゆとりが多くの人にない。
又障害者にとって交通手段が壁になっている場合も多い。
しかし、誰もが自由に出入りできて夜通しゆったりとやりとりできる空間があれば、
「奉仕者」から「 共生者  パートナー 」の時代はそう遠くは無い気がしてならない。