社協職員とコミュニティワーク援助技術 プロセスとゴールを意識せずも、今まで取り組んできた事業の どこにそういった要素があったのかを振り返ること 横浜市社会福祉協議会 鏑木 克芳 はじめに 第1節 保健婦(現保健師)からコミュニティワークを学ぶ 第2節 障がい者福祉に夢をかけたふれあい委員会 第3節 精神障がい者のやすらぎの場づくりをめざして 第4節 わが子に仕事の喜びを 第5節 ボランティアによるボランティア相談の実現に向けて 第6節 5つの事業の特徴には |
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はじめに コミュニティーワークとは「専門職の介入が住民・当事者の主体形成及び、生活障害への支援の組織化を促し、その過程の中で地域の民主化および住民自治の形成を目的とする地域援助技術」である*1コミュニティワークの援助技術のプロセスは「問題(ニーズ)の把握→活動主体の組織化→計画策定→計画実施→評価」にあるといわれている。地域福祉実践の現場ではこの5段階プロセスが規則正しい順序で活動や計画作成が進むわけでなく、問題の発生、活動主体の発生環境が地域によって様々である。*2そして、このプロセスを意識し、最後の評価には一般的に、タスク・ゴール、プロセス・ゴール、リレーションシップ・ゴールの視点が重視される。タスク・ゴールは地域生活課題への問題解決、プロセス・ゴールは住民の主体形成や参加・参画、またや連携力や問題解決能力など、リレーションシップ・ゴールは人権擁護からとらえた地域の権力構造の転換などである。*3 しかし、私は社協職員としてコミュニティワークの専門職でありながらこうしたプロセスを意識し、この3つのゴールを視点で事業を評価しながら業務をしてきただろうか?横浜の場合、地域プラザに地域交流事業という独自の政策をうち、平成3年からコーディネーター専門職を配置してきた。*4 また、行政としては市、区地域福祉保健計画をうちたて、担当部署を事業企画係として積極的に展開している。現在、地域福祉は「全て社協で」という時代ではなくなってきている。 つまり、社協職員がコミュニティワーカーとして各現場のワーカーと協働して業務をすすめていくには、コミュニティワーク専門技術を再確認しなくてはいけない。コミュニティワークの専門技術を社協職員がどう生かして地域福祉を進めてきたか、今後どう進めていくかを確認することによって、区社協以外の他のコミュニティワーカーとどう協働していくかという位置づけを明確にする必要があると言うことだ。ここでは、プロセスとゴールを意識せずしても、今まで取り組んできた事業のどこにそういった要素があったのかを振り返ることを中心にまとめてみた。 このまとめをきっかけに現職場での再確認もしていきたい。 |
*1『地域福祉論』牧野毎治編著 川島書店2000 p137-152 *2「地域福祉援助技術論」平野隆之著 相川書房2003pp163-165 *3コミュニティワーク実践の分析と記録化の視点 藤井博志著p33 *4地域ケアプラザとは 横浜市のケアプラザは、地域福祉の拠点施設として(1)地域活動・交流(2)在宅介護支援センターにおける相談等(3)保健・福祉サービス(4)居宅介護支援を主要な事業として展開している。運営管理は市から委託された社会福祉法人が行い、(1)(2)は市からの委託金、(3)(4)は介護保険が運営資金源となっている。今後は指定管理者制度を導入し、社会福祉法人以外も運営管理が可能となる。平成15年度までに97カ所が開設済で、平成16年度に3カ所開設、最終的には1中学校区1施設の145カ所の開設が目標である |
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第1節 保健婦(現保健師)からコミュニティワークを学ぶ 私は平成元年に港北区社協*5に異動して、まず、地域の中で地域(周り)の人の応援、支援を求め、声を上げている人はどこに住んでいるかがまったくわからない状態にいた。職員1名、嘱託職員1名、管理職2名(行政職員が兼務)という体制でもあったせいで同じ職場に相談相手もいなかった。 異動前の市社協ボランティアセンター配属時代では毎日のようにかかってきたボランティア依頼の電話はかかってこない。窓口には福祉活動者と呼ばれる民生委員、ボランティアは頻繁に来るが、障がい、高齢、子育て関係での悩みを持った人は窓口にこないまま、あっという間に1日が過ぎていくのが現状だった。 当時の港北保健所(現福祉保健センター)は当事者活動の組織化に力を入れていた。その保健婦(現保健師)が介護者の訪問活動から集いの場を設定し、たとえ少人数とでも関係を続けて自分の把握している介護者に地区の集いの通信を出し続けたきめ細かな業務とそれに打ち込むパワーは、私にとってそれまでの自分の業務の手法としてはありえなかった。 しかし、介護という同じ生活課題をもちその疲れや悩みを話すことによって、介護の負担を軽減するという目的を持ち、活動していく中で少しでも介護者の不安をとりのぞき、介護者の抱えている問題を地域・行政に提言していこうという「問題(ニーズ)の把握→活動主体の組織化→計画策定→計画実施→評価」はまさに社協がやるべき当事者支援のあり方そのものであった。 当時社協に理解ある保健婦たちは、私がそういった集い、そして区単位での会作りに業務として参加することを、「地域との接点を積極的に持って、地域から活動の理解を得よう」という視点から積極的に受け入れてくれ、準備会にも参加させてもらった。 最初に区社協職員としての私自身が出来たことは、こういった介護者の会がスタートするにあたって、地域への協力依頼の声を広げることだった。区社協で行う年1回の福祉大会と言えば、それまで福祉に詳しい先生を呼び講演会をするというマンネリ化されたイベントだった。介護者が地域社会に声を出していこうという期待を生かすため、一番多く地域福祉関係者が集まるというこの機会に、「介護体験と地域への期待」というテーマでの発表を福祉活動座談会という形で開いた。 しかし同席した地域福祉活動者からは「介護をさぼって話してる場合ではない」「相談先がわからないのは本人の勉強不足だ」という厳しい反応だった。場を提供した自分としては、肩身が狭い座談会の結果になってしまったが、逆に会の人たちは「地域に理解してもらうということは難しい」「自分達にその技術を身につけなくてはいけない」という積極的な見解を持って活動に勢いをつけてくれた。 私は介護者の会の発足にあたっての準備会の会合には常に同席していたが、「本人達が本人達のできること、しなくてはいけないと感じていることを明確にするまで時間をかけよう」とする保健婦の意見に同感した。口は出さないが出来ることがあれば協力するということで、できるだけ会に参加し、社協がすべき事はどこにあるのかというアンテナをはっていた。 その後介護者の会は、発会式で、@介護をしている方への情報提供A介護の実態を地域全体へ伝えていくB個人では解決できない制度の問題などを行政に提言していくという3つの柱をたてて「介護を考える会」として発足した。いつでも介護者の悩みをうけいれるという基本姿勢をもとに活動し、地域、行政へ対しても存在を大きくし、介護者にとっても頼れる存在になっていった。 社協自身もその後、区役所から飛び出し事務所を構えた中で、「介護を考える会」の活動の場を提供することにより、関係性はより深められた。また、こうした関係性の中で、精神担当のケースワーカーの働きかけで痴呆性高齢者のボランティアによるデイサービスを実施できたり、介護者自身が必要としている送迎サービスをスタートすることができた。しかし、訪問で大切な介護者との関係をつくり、介護という個人問題を社会構造が生み出した問題であるという視点をもった保健婦という専門家と協力してきたことが社協の事業の実績のきっかけになった事には間違いない。 |
*5 横浜市社会福祉協議会は昭和26年に設立。同時に各区に社会福祉協議会も(当時10区)設立され、翌年区内の各地域に地区社協の結成が行われた。横浜市は昭和31年には政令指定都市として定まられた。横浜市の人口は昭和53年に270万人(全国2位)になり、市社協は発展し、昭和54年に区社協職員2名体制を確立。平成10年に区福祉活動拠点として整備されはじめ、区社協は事務所をもち、平成13年区ボランティアセンター事業(国庫補助)を受けた。常勤7名体制になり、区社協機能強化指針をもとに区社協が地域福祉の中心的な推進役として位置づけられた。(現在18区すべて法人化) 平成14年1月に区の福祉部・保健所を統合し、「福祉保健センター」を開設した。横浜市福祉保健センターの設置目的としては福祉部(福祉事務所)と保健所の組織を統合することによって@総合相談窓口を充実Aサービス提供を行う課を高齢者,障がい者,子どもなどの対象者別に再編。 B総合的な企画立案を行う部門を設置するだった。 法改正により、平成14年3月1日から、保健婦・助産婦・看護婦の名称は、それぞれ保健師・助産師・看護師に変更になりました。 平成4年に制定された社会福祉協議会「新・基本要項」を制定し、全国的に地域福祉活動計画策定に着手され、民間地域福祉の計画的推進責任を明らかにするとともに、住民に見える福祉サービス事業の企画・実施を行う新しい「事業型社協」として打ち出された。横浜市の区社協は、港北区、港南区が試験的に試みた高齢者、障がい者に対する送迎サービスが全区に広がり、横浜市からの委託事業「外出支援サービス」を現在実施している。 これは、区社協が自主的に着手した事業がのちに、公の事業として取り上げられるようになったものの一つと言える。 |
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第2節 障がい者福祉に夢をかけたふれあい委員会 私の勤務した港北区にある障がい者団体は「障がい者団体連絡会港北ふれあい委員会」という名称で、○ 年運動会をスタートしたのをきっかけに障がい者の作品展示会という主に2本柱の事業で、港北に住む障がいをもった誰もが安心して暮らせる街をめざして活動していた。 大きな特徴としては、当時7〜8名の事務局(当事者)を持ち、かなりしっかりした企画運営をしていたことと、強烈な個性を持つ事務局長が、行政職員、養護学校教諭、当事者団体と幅広い知り合い(人脈)を持ち、事業を進めるにあたってはいつもそこに協力者がいるというパワーを持っていたことであった。 転勤する前から障がい者福祉には大きな興味を持っていたが、異動時には港北区社協のもつ障がい福祉事業はバスハイクとボウリング大会しかなかった。「こんな年2回いや年2日のイベントで港北の障がい児・者は満足してくれているのだろうか」という疑問を持っていた自分と港北ふれあい委員会事務局との出会いは「港北の障がい児・者はもっと楽しい日を過ごしたいと思っている、そのために、もっと多くの協力者を集め、その中でニーズを解決する環境を作っていこう」ということで共感した。港北ふれあい委員会と委員会が持っていた人材と機関の協働で行ってきた事業を分析したい。 港北ふれあい委員会としてのニーズの把握は、障がいをもつ青年達の夏休み、土日の余暇が不充分だということがあった。バスハイクを2泊3日のサマーキャンプにきりかえたのは、こうしたニーズをもつ人達と宿泊によって「本当に普段大変な生活をしているな」「でも友達になれればなれるんだ」という同年齢層のボランティアを増やして行きたいという想いが大きかった。 こうしたニーズを社協も共有することによって翌年ヤングボランティア講座を春に打ち、すぐにサマーキャンプに入るというスタイルが定着した。当時ふれあい委員会の紹介で出会った作業所・民間会社のボランティア・養護学校の先生の協力で、3年目からは夏休みだけでなく、「通常の土日も」という要望に応え、隔月日曜日に障がい者青年学級がスタートした。そして青年学級の応募者が多いため2年連続で参加することが難しい状況ができた。そんな青年学級のOBを対象に障がい児施設の職員・民生委員・地区社協・地区センターの協力でコーヒーコーナーを毎週土曜日地区センターに開いた。 約3年という間に、障がいを持っている人も余暇を健常者と一緒に過ごせる時間を増やしていこうというふれあい委員会の熱い想いから、みんなの会(障がい者と健常者のグループ)、うきうきサマーキャンプ(夏の2拍3日キャンプ)、街にでよう(障がい者青年学級)、ともだちおいでよ(障がい者ふれあい喫茶)という4つの事業を区社協とふれあい委員会が共催し、実行委員会形式で定着した。*6 共有化された目的に対し、事業を実行していく、そして事業の評価によってまた新しい事業を生み出す。その大きな要因がこのふれあい委員会の持つ人脈の中で実施できたことにほかならない。 社協の思い込み、してあげる的な慰安交流事業から、当事者らが参加して、「自分はこれがしたい」「わが子を代弁してこの想いを実現したい」というパワーは、ニーズ解決の事業に近づけた状況である。そして先に挙げた事業がすべて実行委員形式でそこに健常者も入ってもらい、福祉的視野だけでなく、新鮮な「障がい者と一緒に何かしたいという」という想いを受け入れてきたのも大きな要因であろう。 |
*6横浜における障がい福祉は当事者、家族の運動が強く、さらに、(財)横浜市在宅障害者援護協会(昭和48年設立現横浜市社協障害者支援センター)が中心になって取り組まれた。横浜市社協では国際障害者年(昭和56年)を契機に障がい福祉分野への事業が始まった。しかし、区社協は当時人員体制からもまだ、高齢者中心で障がい者関係では慰安事業的なものが多かった。積極的展開になったのは、平成3年から始まった障がい者青年学級、平成10年から始まった障がい児余暇支援事業といえる。 <こぼれ話> 青年学級で協力してくれた養護学校の先生が担当したプログラムはいかにも子供向けというプログラムだった。学校の中ではそれが自然なのだが、若者の集まる中ではとても不自然で参加するボランティアからは何かいつもの生活感がないという声も上がった。区社協が関わっていろんな分野から集めて行う事業には、幾分専門性が低くなるという危険性もあるが、逆に福祉という分野に新鮮な風を吹き込む(普通の若者の休日を一緒に過ごす)という長所を持っている |
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第3節 精神障がい者のやすらぎの場づくりをめざして 次の青葉区社協に異動して感じたのは、区によって福祉活動の状況が随分ちがうということだった。介護者の会も少なく、障がい者の連絡会もあまりさかんな活動をしていなかった。当時の精神ケースワーカーとは港北時代から繋がりがあり、精神障がい者の生活教室に顔を出させてもらっていた。その親の会の人から、「作業所にも行けず、生活教室でやっと月1回外に出られるという精神障がいの人が多くいます。社協で『何の用事がなくても、そこに行ける、安心できる』と言う場所を作ってもらえませんか」。そんな話を聞いていた。 本当にたまたま区社協の拠点を借りていた「かながわカウンセリング研究会」というボランティアにその話をしたら、「ぜひそういう場をつくってみましょう」と立ち上がってくれた。そもそもそういった悩みのある人の声を聞いてあげたいという人が多かったのか、そんな人が10人くらい集まり「広場を考える会」ができた。しかし、なにぶん「精神障がい者をどう受け入れたらいいのだろう?」「プライバシーは?」「とにかく人が集まるのか?」という不安と疑問は共通に持っていた。 ニーズの把握の情報が少ないため、とても準備に時間がかかった。月1回集まるのだがなかなか進まない。しかし、区役所の精神ケースワーカーの紹介もあって当事者もそこに加わってもらった。難しい話をして周りを困らせるのだが、その人は当事者だからその声は事実として受け止めようとした。逆に困っていく部分を何とかしようという中で「広場を考える会」みんなの結束力が強まり、徐々に形ができてきた。ニーズの共有から計画化にすすむきっかけになっていた。 約1年という準備を経て、「やすらぎ広場」という毎週土曜日、精神障がいの人が出入り自由の場がスタートした。ボランティアの中ではしっかりルールをつくり(特に関わり方に)、当番を決め、その日だれも来なくてもみんなで楽しいお茶のみ会にしようという決意はかたまった。たしかに誰も来ない日もあった。しかし徐々に口ずてで広がり、常連ができたり1日顔を見せ3ヶ月後にまた来るような人もできてきた。 この「やすらぎ広場」世話人会というボランティアには本当に頼りになるリーダーがいた。そして世話人会の立ち上げ、会合には私も出ていたが、個別的な世話人の相談はほとんど私でなくもう1人の職員が出てくれて見守ってくれていた。社協は場を提供する、相談にのるという良い関係ができていた。(詳しくはhttp://home.k09.itscom.net/bukabuka/ronbun/yasuragihiroba.htm) 第4節 わが子に仕事の喜びを 同じ青葉区社協で今までにないかかわりが持てたのはジョブコーチプラスプラス1という団体だ。「障がい者の就労は難しい。高校で進路担当の先生が関わる前に子供達に仕事とはどういうものか体験させたい」という親達が集まってできた団体だ。欧米では就労時にジョブコーチがついて就労の受け入れ側の体制、本人が対応できる状況がつくれてから徐々にコーチが障がい者から離れ、就労の定着を目指すスタイルが一般的だが、日本ではまだ充分に行われていない。 最初にジョブコーチプラス1が区社協に相談にきたのは、そういったセミナーを行ってジョブコーチをしてくれるボランティアを育成する講座を一緒に行ってほしいという話だった。区社協では当時余暇支援は行っていたが、就労支援にはまだ触れておらず多少不安があったが、新たな試みとして応援していった。偶然市社協が同区老人福祉センターを受託した際に、「どこか売店をうけてくれる団体はないかしら」と相談されたのをきっかけに、ジョブコーチの代表の人に話を持って行き、就労体験の現場として引き受けようという事になった。 売店を経営するということ、障がい児・者を受け入れ就労支援をすることは並大抵のことではない。しかし月1回社協も実行委員会に顔を出して何が応援できるかを考えていった。コーチという専門性をボランティアが持つべきかという議論もあり、パートナーと名称が変更になったり、売店にむいていない子供たちの就労体験をということで、老人福祉センターからの草刈り、業者からのポスティングなどの仕事を導入した。とにかく運営も大変だったが活動を続けて行く意欲は高かった。 (詳しくはhttp://home.k09.itscom.net/bukabuka/ronbun/zyobuko-chipurasu1.htm ここでの社協の関わり方の特徴は、資金的援助と活動のPRだ。運営で悩む実行委員さん達の苦労話を聞くのも大事な役割だった。自分達の子供の思いを代弁していく親の勢いはすごい。学校が、施設がかなえてくれない事業を親自ら進めていく。それは、親がその子を一生通して見守っているから。医療、教育、就労と関わる機関が継続的支援にならない現状がある中で、社協は正に地域を通して継続的にライフサイクルの中で関われるチャンスを持っている。余暇支援だけでなく、就労支援、日常生活支援の必要性を感じた事業だった。 |
<こぼれ話> 広場を考える会を進めていた時、ある地区社協の配食サービスに参加した。一緒に配食中のボランティアさんにこの話をすると、カウンセリングに熱心な事がわかり、考える会に参加してもらうよう話したら、喜んで参加してくれ、いつのまにか、運営の中心的役割を担ってくれるようになった。こういうケースは他にも多く、おもがけないところで人と事業が結ばれる。本当に、どこにどういった人材がいるかわからない。 <参考> 精神障がい者の日常の生活の場の提供としては横浜市では施策としては横浜総合医療センターで市域、神奈川区をかわきり生活自立支援センターを全区展開ですすめている。 地域で生活する精神障がい者の社会復帰、自立、及び社会参加を促進するため、ソーシャルワーカーなどによる日常生活相談や日常生活に必要な情報の提供、入浴、食事、レクリエーションサービスの提供を行っている。また旭区では独自に生活支援拠点(ほっとぽっと)を市民協働型で進めている。 |
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第5節 ボランティアによるボランティア相談の実現に向けて 青葉区社協で拠点を持った当時、青葉区のボランティア団体からは「ボランティアによるボランティアセンターはこの区では行わないのですか?」と聞かれた。私は「やりません」とはっきり答えた。その理由は、ボランティアによるボランティアセンターは、ボランティアの視点でしかニーズを受けとめられないのではないか、また区社協が持つ総合相談機能が低下するのではないかという二つの私見があったからだ。 その後、意欲的なボランティア有志の人達と話し合いが展開され、「今のボランティアセンターは困った人に、それではボランティアで---というボランティアをサービス代替の駒としか考えていない。本当に困った人が、行政で何とかしてもらえないか、サービスを十分利用しているのかを検討してどうしてもだめな時、だめな期間だけボランティアで対応するという本来のあり方にもどすべきだ」という強い意思に事務局も納得し、それならば多くの研修を組み、コーディネートを高い水準でできる体制でやっていければ、という事で合意に達した。 こうして、意欲ある団体と社協事務局がぶつかる事はたまにあるが、それは本来そこに求めている体制を両者が納得して進めていく場合、時に必要なことである。ボランティアセンターでなく「福祉110番」という名称で始めた由来は、「困った人がいつでも来て下さい、でも本当にその人が必要とされる場所に案内しよう、ボランティア紹介だけがボランティアセンターではない」という強い想いから来たものだ。いわゆる総合相談機能を持ちたいというところだ。 ボランティアによるボランティアセンターの弱点は述べたが、強さは @ 相談相手との時間を充分かけられる。 A 自分達の経験から解決案を導き出せる。 B 解決していく過程で出てくるそこの地域のテーマを、地域住民側から地域に発言していける。 ということだ。 私はこの福祉110番の設立に多くの人から大きな経験をさせてもらったが、今思っている事は、ボランティアによるボランティアセンターの評価を社協職員がどれだけ行っているかということだ。ボランティア依頼はボラセンに回す、だけに終結してしまっているとそれは区社協総合相談機能を半分失っていることでもあり、事業になんらヒント・連携がなくなっていることにもなりかねない。ボランティアによるコーディネーターは確かに情報がすごい。 しかし、区社協職員がコミュニティーワーカーの原則でもある【ニーズの把握→共有→計画化→実行→評価】の原点でもあるニーズ把握の柱にボランティア相談窓口がある。最初は一緒にといったものが徐々に独立したものと変わる事は担当者の異動、担当者の経験日数から仕方ない現状で起きる。 それでは事務局主導型でよいのだろうか。一方で地域福祉事業を当事者性から進めてきた社協がなぜ、ボランティア相談事業だけは当事者性から進めていけないかは不思議でならない。ボランティアセンターの小地域展開も考えれば、小地域が良しで広域が悪しはないはず。評価と再構築を考えて、今一度、社協のボランティアセンターの有り方は考えていきたいとおもっている。 |
<参考> 横浜市で、市民運営型ボランティアセンターを立ち上げたのは南区の 学校の跡地を使っての平成 年が最初だった。後に金沢区でも民家を利用してスタート。いずれも、ボランティアコーディネートに熱心な区民が自分の地域のニーズを自分達で解決コーディネートして行こうという熱意で進められた。 現在は小地域展開として有名なのは港南福祉ネットワークという地区社協自らが行うボランティアコーディネート事業。実施している 地区中拠点は1地区しかもっていないが、後は携帯電話で対応しているという積極的展開を進めている。 <こぼれ話> 福祉110番にくる相談者は色々だったが、ある日やすらぎ広場(第3節)の精神障がい者Aさんが日にちを間違えて着てしまったが、相談員は熱心に話相手になってくれた。ところが、それに気をよくAさんはよく来るようになった。私達職員の世界では「仕事にならない」と打ち切るところだが、福祉110番の人達はAさんの生活背景も良く知っていた中で、みんなで相談しながら粘り強く対応していた。 |
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第6節 5つの事業の特徴には ここで紹介した事業も20年間がたち、介護保険、支援費制度導入、福祉の民間企業参画、福祉への地域意識の変貌などの背景から、もうすでに終了しているもの、スタイルを変えて継続しているもの様々である。しかし、ここで時間的経過は別として、考えたいのは、こうした事業が発展してきた共通点である。 スタイルとしては@活動主体の組織化から進めてきたのは「介護を考える会」と「やすらぎ広場」。Aすでに活動の主体形成はすでに出来ていたが、自分達の活動をより発展的なものとして広げていきたいという思いを支援して来たのは「ふれあい委員会」「ジョブコーチプラス1」「福祉110番」。この2つのスタイルがあった。 そして、この5つの団体に共通にあったものが偶然にもある。 1.多くの人の意見を受け入れ全体をまとめ、目的達成に強い情熱があるリーダーがいた事 2.自分達の事業達成には誰でも受け止めていこうという公平性を持っていた事 3.事業達成の際は過程を大事にし、なるべく多くの同意を得て次の課題にはいった。(そのため、客観的には時間がかかりすぎたようにも見える) 4.不思議だがどの団体の活動形成の中にも団体内に運営を混乱させる人間が出てくるが、自分達の思いを確認する、関係を濃密にするという逆効果を生んでいる。 5.自分達の取り組む事業には地域的、社会的問題が含まれており、活動自体が地域、社会への問題提議の発信になることを意識的にもっていた 6.人と人の吸収力が強く、全く予想もつかない分野からの参画があった事 。 |
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しかし、いずれも活動主体がかなりしっかりした体制がとれていた事と当時人数の少ない社協からはそんなに踏み込まずして、ここはどうしてもという時だけ一緒にいて、一緒に考えていくだけでも活動主体はかなり理解してくれていた。 また、ここでもう一つ確認しておきたいのはこの事例の中で多くの当事者という主体者を出しているが、生活主体者であることはまちがいない。「当事者」困難を抱える人だけに限定されるニュアンスがあるのに対し、「生活主体」は困難を抱える可能性を含んで、その困難の背景にある生活間を共感しつつ、解決するために行動を起こす人をさす。*7 活動主体のこの広がりこそが社協事業に必要とされているコミュニティづくりの基礎にあると思う。 とにかく、事業を進める中で、「問題(ニーズ)の把握→活動主体の組織化→計画策定→計画実施→評価」の5段階プロセスとを意識し、最後の評価には、タスク・ゴール、プロセス・ゴール、リレーションシップ・ゴールの視点を持って事業を取り組んでいたらもっと効率的に、より、ニーズに近いゴール達成の支援ができたということはまちがいない。 この報告をもとに次回は、コミュニティワークの中で、かかわる事業のプロセスをどうしたら職員組織で共有し、業務として確立できるのかを事例を出して検証したい |
*7よこはま福祉保健研究第2号04.3月「ソーシャルワークとしてのコミュニティワーク」西尾敦著 |